Real Life

倉庫


Text List

◆静かな生物
ラブレター ベランダ園芸 すすき 植物の話 4
◆着物、着るもの
着物つくり事始め 服地の着物 着物って高い? 和裁コンクール 着物は高い2 着物で腕まくり
◆美味しいもの
お料理 1
◆詩歌
珈琲 降りつづける雨に 恋歌 3月は
◆いろいろ、ばらばら
という言葉 イヤリング ティポット追悼 職人って? どうしてはりますか
◆プロフィール

Contents

プロフィール

辰年生まれのいいかげんイイトシです。

イイトシっていうのは、もちろん、「良い」かんじの「歳」ってことです。

私的に言えば、金欠と睡眠不足としがらみに、がっつり絡まれてる気もしますが、なんといっても、座右の銘は「明日は今日よりもいい日」そして、性格は神経質な楽天家です。

京都生まれ京都育ちで、横浜在住。引っ越し回数は20は数えるのに、3県しか知りません。

「もとや真生」という名前で、イラストレーターしてます。

その他の肩書きは、母と主婦くらいかなー。グラフィックデザインとかも少しやります。主婦率が一番低いかもしれない。・・・・ごめんなさい。

ここは、過去あちこちで書き散らした文章の倉庫です。結構真剣に書いたものとか、今読むと恥ずかしいものも入っていますが、これも自分の記録と思って、入れておこうと思います。

現在とりあえず、あちこちから拾って来ては、適当にカテゴリ分けしてぶち込んでいますが、その内キチンと整理しようとは思っています。

なるべく近いうちに・・・・・・・・。

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ラブレター

花の色はいったい何色が多いのだろう。

赤、青、黄色と三原色を考えたとき、例えばどんな花にも含まれている色素のことを考えれば、黄色が一番多いことになる。
 そして、園芸の世界では、美しく目立つ色として、赤が多く作られる。
 そんなわけで、以前「静かな生物」というタイトルで花の色の話を書いたとき、一番少ないのは青だと書いてしまったことがあるのだが、先日調べていると、自然界に一番多いのは青なんだということが解った。
 数ある植物の花弁の色をすべて数え上げた人物が存在するのかとちょっと疑いたくなったことは、ここだけの話。きっと世の中にはそのことだけ考えて生きていけばいい人もたくさんいるのだろう。
 ともあれ、青が一番多いという認識が植物の色素研究者の間の通説らしい。

植物の青の色素を純粋な結晶の形で始めて取り出すことに成功したのは、日本人だということで、別にどこの国の誰が始めであってもかまわないのだが、いかにも「らしい」な、というのは、日本人という人種に対する偏見だろうか。
 細く結晶した花の青はどれほどきれいだろう。
 青の結晶という言葉だけで、イマジネーションの世界に遊べるほど、きれいな言葉に聞こえる。

友褝染めの下絵に使う あお という染料はつゆ草の青い色素を和紙に染め付けたものを水に溶かしながら使う。
 染められた和紙は深い深い藍よりも深い色をしているが、水をたっぷり含んだ筆でそっとなぞってやると、秋の遠い空のような青が溶け出してくる。布に落とした青はとてもはかない染料で、日に当たると薄く茶変し、水に濡れると跡形もなく流れてしまう。
 日本で最初に作られた青の結晶はこの 青花とも呼ばれるつゆ草の花から取り出されたものらしい。

さて、何も専門知識の蓄積をするためのページではない。植物の中に潜り込んでいくことを生業にできる幸せには多少憧れも感じないではないが、単純に好きだからということで、無責任に話題を進められる幸せのほうを選んでしまおう。
 ここは、植物というものについて、よもやま話を、気の向くままにふらふらと、時には怪しく、時には愛をこめて何よりも植物達に向けて語る場である。
 植物がここにあげた文章を読めるかという話はとりあえず措いておいて、これは私の植物へのラブレターなわけである。

純粋な青の花を求めるロマンを愛しく見ることができる目をなくしたくないという、私の悪あがきかもしれない。


追記


ところで、植物植物とくりかえしているが、どうもこの漢字2文字の呼び方は肩が張って困る。はなと呼べばそれなりに柔らかいのだが、私が愛するのはそれこそ根っこの先から、雌蕊の中までなので、はなと呼ぶにも抵抗がある。
 はな とか くさ という言葉はもともと植物全体を指していうこともある名前でもあるが、どうしても、はなは花部を連想させるし、草は草本を連想させる。
 それで、静かな生物という呼び方を以前、表題にしてみたのだが、静かな生物というタイトルでおしゃべりな植物のお話を展開してしまったこともある。(そのうち、ここでもリメイクしましょう。) なにかいい呼び名はないものだろうか。
 昨今流行の緑という言い方もある。が、色のイメージが強すぎてなかなか自分では使いにくい。植物の持つ色は緑だけではないし、緑に連想される働きのみが植物の働きではないのだ。

と、こだわって呼び方を考えて見ても、植物達は素知らぬ気に悠然と時の中に生きている。
 いい名前など彼等には必要ないのかも知れない。太古に名付けられた事実さえ忘れてしまいそうなほど、彼等は悠々と生きているのだ。連綿と続く時の記憶を次の世代へと確実に伝えながら。

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ベランダ園芸の限界

引っ越して、土のない生活を始めて、しばらく経つ。
 最初はわずかな観葉植物で我慢しようと思っていた。何しろ賃貸マンションのベランダは狭いのだ。
 だが、やっぱり我慢できずに、今度はあれ、次はこれ、というふうに、実家から鉢を持ち込んでいる。
 私には、何度もの引っ越しに必ず連れて歩いている、丹精した鉢がいくつかあるのだ。

まず、這延性のローズマリー。

いろんなところに株分けしたが、親木は花の季節になるといろんな人が立ち止まって見ていく程、見事に 育っている。紫の花が滝のように流れる様は、わが子ながら惚れ惚れする。
 この親木はベランダには運べず、実家の母に面倒を見てもらっている。
 で、株分けした方を持ってきているのだが、どうもうまくない。
 育たないというのではない。1年で随分大きくなった、が。
 成長に方向性がないのだ。地べたに広がるたんぽぽの葉っぱのようにダラリと八方に枝をのばして、どうも見栄えがよろしくないのだ。
 彼(ローズマリー)にしたら、見栄えなど人間様の勝手な事情で、植物には植物の事情がちゃんと有るのだろうが、 あの見事な紫の滝が見たいと思うのは、わがままだろうか。それとも、ベランダでは狭くて、高さもなくて、照り返しはあって、で、無理な話なんだろうか?

つぎが壺珊瑚。

赤い可愛い和花で、いつか和風の庭を作ったら、ぜひ植えてやりたいと持ち歩いているのだが、和風の庭を作るまでに、何回株分けしなくちゃならないか、ってなくらい、丈夫な花である。
 が、せまいところで育てているので、他に花についた虫を、すぐに貰ってしまう。
 もう、毎日毎日が虫取りの日々で、おまけにベランダは乾燥しやすいときている。もともと半日陰好みの花なので水をせっせとやる手間もかかる。
 でも、手放さない。

それから、ベランダで育てることを諦めたものもある。

レモングラス。
 これは無理でしょう。実家で毎年勝手に生えて、刈られて乾燥させらたものを我が家でせっせと消費している。

和薄荷。
 同じ紫蘇科の植物と同居させにくいので、という理由と、やたら増えるので、という理由で諦めた。

金鎖。
 これも大きくなるのでね。庭を持ってからの楽しみとなった。

花カイドウ。
 サクラより色っぽくて好きな春の花は、盆栽仕立てにしても、もうかなり大きな鉢になってしまって、今では実家の春の顔になっている。

書いていくとキリがない。         
 そして、また、キリなく思う。庭欲しいよぉ。

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すすき

幽霊の正体見たり・・・などといわれる枯れすすきだが、枯れすすきが幽霊に見えたことは私にはない。が、中秋の頃、それまで剣のような細い葉草の群れだった野原が、小さな花をあちこちにほころばせ、すすきも穂をつけはじめる。ちょうどその頃の夜に見渡すすすき野は、確かに少し薄気味悪いかもしれない。

春は花木。秋は草木と言われるように、秋の昼間の野原は、夏の艶やかさ春の華やかさは無いものの、慎ましやかな花がそこここに見え隠れし、草の実も彩りを増し、なかなか趣深い。
 しかし夜、冴えた月明りに印影を増した草の野は、異世界の様相を見せ、ゆらゆらとゆれる尾花は、まるで手招きしているように見える。
 その怪しい光景が見たくて、私は何度か深夜の野原の脇に通った。

月の明りは冷たく痛い。風はまだなまぬるい。ふわふわと右から左から方向の定まらないまま吹いてくる風に、ざわざわとゆれる細い指。

それは枯れているという儚い仕草ではなく、血をすするために生気ある者たちを絡めとるしなやかな動き。黄泉の国からの生々しい招待に見える。

花開き、枯れてしまったすすきは、ぽわぽわと柔らかそうでとてもかわいい。

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植物の話4

近日アップ

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着物つくり 事始め

思えば、着物の仕立てといえば、母にいえば何とかなる。
 そういう恵まれた環境にいた。
 母は30からの手習いで、和裁を覚え、細かなとこに気を配る仕事ぶりから、お得意さんも出来て、先生にも可愛がってもらい、私は母の仕立てが「和裁の標準」だと思っていたので、これも随分恵まれたことだった。
(実は、世の中には 随分荒い仕立てや、いい加減な仕立てもあって、荒くもなくいい加減でもなくても、身に合う仕立てというのは、なかなか当たらないということを、最近知った。)

さらに、京都という土地柄、和裁をするとなれば、仕事先には困らない毋が、どんどん増やしていった仕事関係の伝手のおかげで、和服に関しては、染め、加工、直し、という製造から、小物類まで、問屋価格で手に入るという、着物生活には夢のような環境だったわけだ、、、今思えば。

京都から横浜に来て、暫く離れていた着物生活を再開しようと思って、これらの恵まれた環境のほとんどが手元にない事に気がついた。
 着物の丸洗い一つ、ちゃんとやってくれるとこが解らない。(結局京都に出してます。)
 悉皆屋って関東に無いの?(そんなことありません。ちゃんとあります。)
 小物が充実してる店も解らない。(おまけに高い!)
 一番困った事は、母が正座が辛いからと、和裁を滅多にしなくなったこと。
 孫の分くらいは縫ってあげるから、といってくれるが、いつ何があるか解らない。それに、着物生活には、まだまだいっぱいの着物が欲しい(物欲マシンの波が時々来る)

困った、困った。。。

そうして、私にはもう一つ、やりたい事があった。
 「その辺に売ってる生地で、気軽に着られる着物がいっぱい欲しい。欲しいという人には分けてあげられるしくみが欲しい」
 をいをい、、、自分の着物も足りないといいつつ、欲しがってるかどうか解らない、人の物まで考えるか?

でもね、これは昨日今日の考えじゃ無い。

実は 20才の頃、、、毎日着物着てた時分、、、私の着てたのは、母が若い頃に仕立てた、洋服地の着物だった。
 表も裏も綿で、汚れたらザブザブ洗える。最近の洗える着物=ポリエステルではなく、肌にちゃんと馴染む、普段着の着物。
 それがとても着やすくて、なぜ、みんな洋服地で着物を作らないのか不思議だった。
 まぁ、当時は 普段に着物って若い子は着なかったしね。綿の着物は、ちゃんと綿の反物で仕立ててれば、事足りたのだ。

でも、もったいない、、せっかくこんなに使い良いデザイン(形)の着物を、もっと自由な布で作らないなんて。
 だから、一時の着物生活休止時期を過ぎて(休止の理由は、まぁ いろいろ、、です。ここでは省略)再開するとなれば、ぜひ、洋服地で普段着をたくさん作りたかった。

しかし、母を頼れないとなると、、、、自分で縫うしか無いか。
 でもまぁ、人様にお分けするわけでなし、自分が着る分には多少縫い目が不揃いだろうと、誰がとがめるというのだ。

とりあえず、そこから始めようと思う。

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服地の着物

服地買い漁ってます。
 着物だけじゃ無くて、帯も作ろうと、帯によさげな生地もいろいろ。
 一時期、洋服も手作りしてた関係で、服地もけっこう在庫があって、半襟にでもできるものは無いかと、段ボール箱をひっくり返します。
 洋服にするつもりだったので、さすがに着物は作れないけど、半襟や帯くらいなら できるんじゃ無いかと、さがしてみる。

先日の初仕立て習いの時に、115cm幅の服地を寸法取りしていくと、5m買ったのが 随分余る事が解り、自宅に帰ってから、母から借りた古い和裁の本を見ながら、「効率の良い生地の取り方」をいろいろ研究しました。
 この本がまた、随分進歩的な本で、広幅(服地用)での 裁ち方もいろいろ載ってて、随分無理な取り方でも「こうしちゃって大丈夫よ〜」みたいに書いてある。

おまけに、パッチワークの着物やら アップリケの着物やら 衽のない着物やら 今よりよっぽど自由。
 綿やウールは いっそミシンで仕立てましょう!とはっきり書いてある。
 私は服地で普段着の小紋を作るつもりだから、ザブザブお洗濯出来ることを考えれば、ミシン大歓迎。
 この本には随分励まされました。(昭和中期の本です)

それで、、「襟を継いだり 下前衽を継いでいいなら、115cm幅の服地は4mあれば 着物になる。襟を継がないなら4m半。」と言うのが結論でした。(ただし、柄合わせは考えていない)
 これで、生地を買う時の目安はばっちりです。

あ、帯は、名古屋にするか 袋にするか 作り帯にするか、リバーシブルにするか、、、
 選択有り過ぎなので、まだ 寸法だしてません。足りない寸法が出てきたら考えよう。

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着物って高い?

例えば私は着物をよく着るが、今の呉服業界はあきらかに 顧客ニーズから離れてるところが多い。(そのうち淘汰されるだろうけど)
 問題は ニーズから離れてるという自覚をせずに、または、解っていても、責任転嫁をして、間違ったニーズを作ってきた事。

呉服を買う時、何故、「着物は一生ものですから」とか言うんでしょう。

わたしは、しょっちゅう着るから、数年で生地が擦り切れる。すり切れた着物は、解いて子供の普段着や前掛けや上っ張りに、変身。ついでに言うなら、上っ張りも既に雑巾になったものもあります。(絹で窓拭くと綺麗になるのよー)
 雑巾になるまで使っても10年です。
 1生ものとかいって、1生に数回しか着られない着物ばかり作って、ニーズを狭めることを促進していったのは 他ならぬ呉服業界の人たちです。

最近でこそ木綿の着物とか買えるようになってきましたが、5年前まで「そんなもん電車賃いくら使って買いに行くの?」ってくらい売ってませんでした。
 妥協するならあるんですよ。でも絶対数が少ないから、自分好みを見つけるのに、あちこちかなり回る事になります。

で、生地を買って仕立てて 数万ですよ。木綿の単衣で!
 洋服で数万っていえば、少なくとも ちょっと改まった格好くらいは買えます。(このへん 金銭感覚は人それぞれでしょうが、 年収500前後の庶民家庭ではそうじゃないですか?)

でも、木綿の単衣はあくまで普段着なんです。
 それで、掃除も洗濯も炊事もするんです。トイレ掃除も庭木の植え代えも、、、
 数万のスーツでそれ、やりますか?
 私はしません。

この金銭感覚でいくかぎり 着物のニーズは広がらない。
 幸い、普段着といいつつも、着物を着てると 皆さんある程度改まって見てくれるので、綿だろうとウールだろうと、お出かけ着にしちゃえるという現状には助かってますが。

でも、でも、、、
 やっぱり 裾野が広がらない限り 全体的なニーズは広がらない。
 ニーズが広がらない限り、やっぱり業界は先細りで、流行はそのうち去っていき、またまた 安いものを手に入れるのが、難しくなってくる。
 普段着を着ていて、改まってみてくれなくてもいいです。普段着は普段着としてみられれば充分なんです。
 普段着が普段着と解るくらいに、着物が日常に普及してほしい。

なにも、高級着物を淘汰してしまえ!って言ってるわけではありません。
 でも、安い着物とかミシン仕立ての着物とか そういうものを 見下すようなのは言動は止めて欲しいと思います。
 このまま先細りで 業界自体の消滅を見るより、適材適所でニーズを増やして、業界に息を吹き返して欲しいです。

着物が流行ってます。
 自分達の作ってるものとは、一線を画してるから、、とか思わずに、街の呉服やさんたちは、こういう着物も上手く取り込んほしいものです。


■追記

きちんと手をかけられたものには、それなりの対価を払いたいとは思うけど、使用目的に対する適価っていうのもありますよね。
 5万の着物だって、そりゃ確かに、毎日そればっかり着て、5年間着れば コストパフォーマンスはOKかもしれないけど、お洒落を放棄しろとは言えないものね。毎日同じ着物ばかり着たくない。

気軽に買えて、気軽に着られて、着替えられて、お手入れも簡単。
 これが出来ないと、裾野は広がらない。
 裾野がない山は崩れていく。
 手仕事の価値を守るためにも、機械の仕事の参入は必要なんだと思います。


 

■さらに追記

先日、
 「最近の若い子の着物って何?まるで狂女みたい。あんなのねぇ」と
 顔をしかめる奥様がいらした。

いわゆる「姫系」の着かたのことらしい。

 あのねぇ、、自分で着付けもできずにいちいち美容院にいって、年1回着るか着ないかの人に 言われたくないです。
 私はわりと普通の着かたですが、若いなりに楽しんで着てるなら いいと思うんですけどねー。

だって、着物って「着るもの」だし。
「ファッションアイテム」の一つだし。

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着物のお仕立てのコンクール

「着物のお仕立てのコンクール」  
 というものに いってまいりました。  
 着物の作品展というのには、何度かいった事はあるのですが、仕立てのコンクールというのは初めてです。
 母が仕立てをしていた(過去形です)ので興味があるかと思い誘ってみると「ぜひ」というので、(横浜に来て仕立て関係の友人がまったくなくなり、飢えてたのねー。)いっしょに連れて行ってまいりました。
 そのちょこっと感想です。

普段、着物を着る人は仕立ての現場は見る事が少ないと思うのですが、着物の仕立ては普通はみんな手仕事です。(ミシンを否定しません。普段着はミシンの安いのでどんどん着ましょう!派ですし、、σ(^_^))
 で、いわゆるオーダーメードなわけですよね。
 ここで、本来、着物というものを通して、着る人と作る人のコミュンケーションがあれば、それはとてもいい形で、文化が継承されるんじゃないかと思うのです。
 例えば器だって、作り手の「こんなふうに使って欲しい」という思いが、使い手に伝わって、「こんな風に使いたい」という使い手の思いが作り手に伝わると、ずっと大事にされていく、幸せな器が出来上がっていきますよね。
 この場合、出来上がるというのは、「商品が出来上がる」ではなく、  
 
 「物が、物として出来上がるには、物が物として使われて、生かされていく事である」
 
 という意味での「出来上がる」です。


 

現在の着物業界の状況を見るに、このコミュニケーションは、呉服屋とか営利主義の古着屋とかに分断されています。
 この現代にあるからこそ、もっと 作り手と使い手(着る人)のコミュニケーションを担う何かの場が欲しいと、切実に感じました。

コンクールは、多くの若い和裁士さんたちが、その技術を競う場で、見ているだけで熱気が伝わって来るのですが、実際仕立てを知らない私は、見ているだけでは何も解らないと思っていました。
 でも、見ていると、何人か気になる方がいらっしゃるのです。「ああ、あの人の仕立てた着物、、一度着てみたい。」と。
 私も一応技術職ですから、なんとなく感じるのですが、「美しい仕事をする人の動きには無駄がない。無駄がない動きは美しい」
 分野が違っても、多分それは共通だと思うのです。
 「あの人の動き、綺麗だね・・」と 母にいうと、やっぱり「仕事が丁寧で、手の入れ方が的確だと思う」と返ってきます。(コンクールの仕立て方は特別で、普段とはまた違うよ、、という話も聞きましたが、普段の癖はやっぱりでてくるものだと思います。)

 願わくば、こうして研鑽して技術を磨いている人たちが、いい呉服屋さん、いいお客さんに恵まれますように。
 いいお仕事をする人たちに、ちゃんとした評価が返ってくる場がありますように。

2005年08月04日

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やっぱり、着物は高い

それは、着物そのものの価値は解っていても、絶対的な価格としてそう思います。

ユニクロの1000円のTシャツで過ごしている現代人に、着物を楽しんでもらおうと思ったら、まず、「着物は高い。」ということを 認識すべきなんだと思っています。
 着物の価値は解ります。多くの手を経て仕上ってくる着物が、相応の価格になることも、当たり前です。
 しかし、普段着の小紋や紬でも10万近くはかかってしまう誂えを、「気軽に」着られないのが、庶民の感覚ではないでしょうか?

その感覚を、きちんと理解した上で、着物文化を考えないと、見当外れのいろんな答えがあちこちから、でてくるだけのような気がします。

「着物は高い。だがそれはその着物に見合った価値である。」
 この場合、価値に見合った価格というのは 作り手側からの言葉です。
 では、着る人にとっての価値とは?
 着るものは、日常の必需品である。着るものは痛むし汚れるし、消耗されて行くものである。手に入れた価格が、十分消却されるかどうか?消却される価格が、そのものの適応価格である。

 

ここに溝があるのでしょうね。
 その溝を、過去何十年か、呉服業界では「よいものは 一生もの。」という付加価値で埋めようとした。
 そして、ここ何年かの若い世代は、消却出来る価格帯の物を、「安かろう」の中から、または、「過去によかったであろうもの」の中から埋めようとした。

 

そういうことではないでしょうか?

 

まず着物を知る裾野を広げるには、昔を見習えば解ります。
 安く手に入る着物が多いことです。
 昔に習えないのが、昔は家で仕立てていた普段着が、仕立てられないこと。
 その代用としての 海外仕立てやミシン仕立てなんでしょう。

 

ちなみに、ミシン仕立ては、自分の着物を誂える入口だとは思いますが、
 リサイクル着物は、着物の入口だとは思っていません。
 着物のリサイクルは、立派な着物文化だと思っています。
 だって、もともとリサイクル出来るようになってるじゃないですか?たまたま 今クローズアップされてるだけで、リサイクル着物は、着物本来の形でしょう。

私は 持っている着物の8割が仕立てて貰ったものですし、生地や染めから選んで誂えてもいます。
 これからも、多分 誂えはすると思います。
 でも、リサイクル着物も、購入手段として続けます。着物なんですもの。着てあげないと。。

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着物で腕まくり

ある場所で話題になった、「着物で腕まくりはかっこう悪い」という話。
 大方の意見は 着物で腕まくりは見映えが悪い。たすきがけならOK
 裾を短く着るのは、あまり格好良くない。
 裾をからげるのも、ちょっと、、、、、

って感じらしい。

どうしよう、、ぜんぶやってます。^^;

まぁ 外ではしませんが、、一応、、ね。
 家事やってると、腕まくりなんかしょっちゅうです。(お外に行く時は、たすきかけます、、ハイ)

裾短く、、まぁこれは、さすがに歳が邪魔するのでしてませんが、若い子がミニ丈で着るのは可愛いと思う。(洋服はミニスカートはいたりしますが〜^^;)

今 流行りの張りのある、兵児帯とかふわっと結ぶと可愛いジャン?
 中途半端に脛出すからダメなのよね、、きっと。
 膝まであげましょ、いっそ。

で、裾まくるの。
 床の拭き掃除とか。そのほうがやりやすいもん。
 家で着る時はたいてい帯なんか クルクル巻いて挟むだけだし、後ろ帯に、着物の裾を挟み込んで、、、いわゆる 尻端折り(しりっぱしょり)ですね。男の人がよくやる。

外で似た事といえば、雨なんかに合った時に、褄先を帯に挟みます。ざっくり長襦袢が見えちゃいますが、もともと「見えるかもしれない覚悟」で着るものですから<着物の長襦袢。

汚れても、着物は汚れるものだからと 諦めて、颯爽と着るか。
 汚れて後悔するのが嫌だからと 正直に着るか。

私はどっちも正解だと思うなー。

一張羅は ぜったい 捲ってしまう。
 綿なら、汚れてもいいから 濡れながらザンザン歩く。

だいたい「着物」っていうだけで、ルールやマナーが洋服の何倍にも増えるって、どういうことよ?
 おまけに、いるのよーーーー
 チェックばばぁ  (笑)

一応私は、結構 理論武装が出来てるので、「フンッ」って思ってられるけど、知らない子だと、なんかちょっと言われると、おろおろしちゃって 可哀想だなぁと思う。

ちなみに 着物に関するマナーって ほとんど 昭和に入ってから出来上がったんですよ。
 まぁ 基本は「伝統にのっとって」ですが、「決められちゃった」のは結構新しい。。
 そんな新しい「伝統っぽい話」(変な日本語〜)を さも大切なしきたりのように掲げて、人に「もの知らず」という輩こそが、着物文化を貶めてるって気がついてほしいものです。

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お料理の話 1

近日アップします

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珈琲

手の中に抱く温もりのあるうちに飲み干せそれの冷めやすきゆえ
                       (20030917)

ゆると喉の 手前流れし液体の 苦きそのもの 甘きそのもの
                       (20030917)

くちづけは 苦きものとは君よ知れ 熱きものとは我の知らねば
                       (20030917)

ぬばたまの 乙女の髪の色写し 熱き誘いの唇を焼き
                       (20030917)

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降りつづける雨に濡れながら


 貴方の腕を思い出したりしている。
  
 うすくのぞく血管から、  
 指先に至る線を  
 
 紅さす指で なぞる幻想を
 ぬるい水滴に重ねている。  
 
 張り付く背中の青いきぬを
 はぐ音を 聞こうとしている。
 
 口づけの瞬間に どこかにあったはずの
 繋いだ手の痛さを繰り返そうと
 握りしめた両手を
 外せないでいる。
 
 雨が落ちていくのは、
 私のもとへではなく
 消え入りそうな記憶の中へ
 波を立てるためなのに。
 
 消え去る瞬間をさがすせつなさに
 恋してじっと 濡れている。
 
 950705

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恋歌


 山の精気が狂う様に
 木々が想いを持つように
 水が祈りを持つように  
 
 山の癒しがあるように  
 川の恵みがあるように
 
 海の怒りが聞こえるように
 空の嘆きが轟くように
 
 砂のささやきを聞くように
 花の眠りを読むように
 
 雨が喜びを歌うように
 風がためらいをつぶやくように
 
 腕が出会いを確かめるように
 指が別れを引き止めるように
 
 髪が貴方にからみつくように
 胸が貴方に開いているように  

 貴方を愛していいのでしょうか


 返歌
 
 木々の想いは 明日へと繋ぐ想い  
 明日は未来を夢みる寝屋
 遠く彼方の記憶の入り口
 見たはずの 見てきたはずの
 思い出せない 先見の記憶
   
 水の祈りは 命の歌
 命は今日を信じる器
 体を流れる億千の営み
 感じ取る指の触感が
 私の真実
 
 山は歌う 太古から続く土の歌
 そこから生まれた 信仰と
 そこにまだある情念と
 すでに巣立った 生命へ

 川は話しかけてくる
 喜び
 聞こえる悲しみ
 触れるためらいを諌めながら

 海はまず何を想ったか
 その内に 心を内包してしまった時
 その内に 体を作りあげた時
 何を想って 内なるものを
 我が身より切り取ったのか
 切り取ることを 許したのか
 そして 切り放した内に 怒るのか

 空は海を嘆いたか
 同胞の怒りをいつ知ったのか
 海はまだ 空の内にあるのか
 空はまだ 海の声がきけるのか

 砂は幾漠かの旅をする
 小さな記憶を小さな雫に伝えるために
 小さな雫に出会えぬ砂は
 さらさらと さらさらと
 いつまでも ささやいている

 花はただ花であるために咲く
 記憶も 想いも
 眠りの中に深くしずめて、
 そうして美しく咲くために
 花でいる

 記憶と記憶を繋ぐ糸
 想いと想いを繋ぐ糸
 命と生を繋ぐ長い糸
 天から地への歌う糸
 雨
 
 波立たせ、さざめき
 ゆさぶり、とりまき
 思い起こせ、はるか昔
 私が一個の小さなものであった頃
 空気は私を愛したか
 風はどこにあったのか

 腕も 指も
 髪も 胸も

 私にある物 すべてが
 貴方をもとめるように
 貴方と出会うように

 貴方を愛していいのでしょうか

 

950724

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 盃 かわせば 時は幻にかわる
 貴方の剣なら 私の血で染めてもいい

 この幻世で ただ一人
 あなたにだけ ひざまづこう

 幾夜 限りなく 私を酔わせて
 帯を解くのは 私の手ではない  
   −−−−もちろん 貴方でもない
 それは 盃から こぼれ散った
 媚酒のたてる 黄金の香

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3月は


 わかれつきなれば さかえしゆめみよ
 かすみなる あまのむかうは たかきやまなる のぞむひとまつ いのたかさなる
 であいつきなれば たゆまぬゆめみよ
 きこえくる ひとのむかうは ふかきたにくる のぞむおもひの なさけふかさよ

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あいしているという言葉

昨夜の睦みごとのベンチに、今朝見知らぬ女が新聞を読んでいる。
転げて夜空を見上げた川辺のコンクリートの傍には、増水で運ばれてきたごみ袋や紙の端切がむき出しの枝にひっかかったまま、乾きもせず、なびきもせず。草は泥を被って白茶けている。
 橋の下の暗闇は、まぶしい朝には何のロマンも呼び起こしてくれない。
 あいしているとつぶやくとき、相手の顔しか見ていないというわけではない。まとわりつく川風に舌打ちをしながら抱きしめる言い訳にしている。
 川面を跳ねているらしい魚の音に首を向けるふりで頬にキスをうける。
 あいしているとつぶやくときには、多分すべてが二人の為にあるのだと思う。もしかしたらその時に気がつけば黒いごみ袋でさえ、愛を交すための目立たない背景になっているのかもしれない。
 あいしているという言葉は、本当はいらないのかもしれない。耳元で囁かれる喜びは日に日に増していくのに、私は囁いてくれる半分しか言葉を返すことがない。そのうえ、返す時には、囁きではなくつぶやきになる。唇の端にしか漏れてこないつぶやきを、優しげに受け止めてくれる人のせいで、ますます言葉は内側に籠ってしまうことになる。
 吐息ほども漏れない言葉をやっぱり笑顔で受け止められて、笑い返すしかできない私の、なんと不器用なことか。
 抱きしめられた時、所在無げに背中に沿わせたあと、やっと抱きしめ返すことを思い出したように力を込める手の定位置さえまだ決まってはいない。
 欲しい言葉をほしいと言えず、回りくどいおねだりを諦めてしまうほど、情けなく、意気地ない。
 いったい何度恋愛というものを経験すれば、もっとましな反応を返せるのだろう。気の利いた台詞を思いつくのだろう。

だから、あいしているという言葉はいらないのかもしれない。
 その一言に要約された気持ちを、補うすべを知らないのなら、たどたどしいままの動きを繰り返し繰り返し、笑顔で受け止められる幸せに酔っていればいいのかもしれない。
 なんとか伝えたい気持ちを表現する言葉がどうしても思い浮かばなくなって、そのたどたどしい動きさえできなくなったら、あいしているという言葉を、やっと声にする。
 崩れるあなたの顔を見て、もう一度幸せを確認するために。

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鈍い下腹部の痛み。重く冷たい鋼の鎖を身体にまとい、引きずる感覚。
 夜の闇に血の匂いを嗅ぐ。
 丸い小さな卵が後頭部からころんと落ちていく。ころころと脊髄を這い回り、腹の奥深くに辿り着く。子宮に到達を知らせるように震え、応えて奥の宮が震える。鎖がガチャガチャ音を発てて身を身を締め付ける。
 夜の道を歩きながら私の指は血を求めていた。腹の中に指をつっこんで、何かを引きちぎりたい衝動に駆られる。それとも引きちぎって欲しいのか。舌が鉄の味を呼び出す。
 指が進入してくる。腕が腹の中でうごめく。男性自身が割って入り、すべてを飲み込む私の身体が二つに割れる。股からの裂け目が腹部に胸に喉に達し、額を裂き、割れた私の残骸の生温かい血溜まりの中で、貴方が幸福に横たわる。その眠りに口づけたくて、私は左右の頭をもちあげる。
 突いて突いて貫かれた身体は、血と肉という只の物体になっても、貴方を欲しがる。
 もっと壊して私を狂わせて。汚して、喰い尽くして、壊して、壊して。腹を、乳房を、頬を。貪って、食べ尽くす貴方の中に、私の血が流れていく幻想。
 愛しい人を食べ尽くし、自分の血肉にするのは征服の証?独占の標?
 愛しい人に食べられたい欲情は、一つになることへの切望。
 二人が一つの物体に融合し、無機質な原始の電流が流れる反応を、不規則に繰り返す。
 内臓の中で貴方の部分が脈打つ。
 鼓動が共鳴し、意識を飛ばされる瞬間に握り締めた指がずるずると二人を奈落に引きずり込む。

繋いだ鎖は錆びて足元に崩れ落ちる。重い砂に埋もれた身体を残し、想いは昇華する。
 混沌のぬるま湯んい浸る夢を見ながら・・・。

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イヤリング

イヤリングを落とした。どこでだか解らない。
 横浜に越してきて二回目の年末。
 京都からこちらにきて、いろいろなことがあって、それでも生活に追われるままに過ごすことがとても大切だった毎日。
 やっと落ち着いてきたかなと思えて、ささやかな自分へのプレゼントに買ったイヤリングだった。
 着いている石の名前も忘れてしまった。ホワイトトパーズだったか。
 小さな金の輪ッかで毎日着けられるようにと買ったものだった。そして、ほとんど毎日着けていた。

そのイヤリングを落としてしまった。いつ落としたのかまったく憶えていない。ということは、どこで落としたのかも解らない。

装飾品の中ではイヤリングが一番好きで、一番落としやすいということもあって、一番たくさん買っている。以前お気に入りだったシルバーのお月さまも、水晶の雫も、金のハートも。
 今ではみんな片方しか残っていない。物欲は薄いほうかもしれない。いろんなものを溜め込む癖に、なくしたら諦めも早い。
 去年相方にもらったクリスマスプレゼントのアメジストなんか、もらったその日の片方落としてしまった。さすがにその時は大慌てで、行動反復・・・・・夜の道を懐中電灯片手に探しにいった。幸い家の近くの歩道で発見したけど。
 片方だけのイヤリングは、今も時々、片方だけで活躍する。

石はやっとダイヤモンドの良さがわかってきたぐらいで、もともと色石は苦手なほう。
 それで金の細工ものが多くなる。片方ばっかりになったイヤリングをあつめれば、けっこうなチェーンが出来上がるんじゃないだろうか。
 そういえば、始めて月30万という稼ぎが達成できた10年以上前。その記念に買ったのもイヤリングで、18金の3色の細工ものだった。

何かの記念といっちゃ、イヤリングを買っているわけだ。

ダイヤモンドのイヤリングは自分には未だ早い気がして母へのプレゼントにした。もちろんあとで自分の手許に入ってくることを見越してのずるいプレゼント。


 最初の結婚の時はパールを買ったっけ。
 まだ一度も着けていない。着けずにその結婚にケリが着いてしまった。

ケリを着けたとき、やっぱりその記念にと何かを買いたかったのだけど、なにせほとんど裸で出てきている。
 生活を安定させることで精一杯だった。
 それでやっと、二回目の冬に買えたのだった。
 高いものじゃない。小さなイヤリングは、でも、私の横浜への挨拶だった。
 「こんにちは。これからずっと、よろしく」

翌日、毎日通う駅のホーム。
 もう帰宅するばかりの時間。イヤリングのない耳を触りながらベンチに座る。
 そう、イヤリング落としちゃったねぇ。といいながら、ふと、前を見る。
 あれ?金の輪ッかに見えるなぁ、あれ、きっとイヤリングかなんかだ。前方約1.5m。
 近づいて手に取ると、それは昨日私の左耳にあったはずのイヤリング。確かに、私のイヤリング。
 踏まれて留めの形は変わっているし、傷だらけになっているし、昨日はここは通らなかったような気もするけど、確かに私のイヤリング。


 まさか、見つかるなんて思ってもいなかった。一日、ホームの掃除もあったろうし、人も少なくない駅。何よりどこで落としたのかも解らなかったのだ。

「こちらこそ、よろしく。」
 戻って来たイヤリングが、そう言ってくれたのかどうかは、わからない。
 わからなくてもいい。私はここに住んで、お気に入りのものを、またすこしづつ増やしていく。

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割れたティポットへの追悼

紅茶用のポットを割ってしまった。二人用の真っ白な小さなポット。
 まんまるい両手にすっぽり収まってしまう形が好きだったのに・・・・・。
 今度はいつ買おう・・・。小さなポット。

紅茶のポットはいつも小さな二人用を選ぶ。
 わいわい ティーパーティも好きだけど、紅茶は二人か それとも一人で。
 ほっ と、愛を暖めながらのむのが好きだから。

トレイにカップとポットと金色のスプーン。今日はどのカップにしよう。
 「どれでもいいよ」と言ってくれる貴方も好き。
 「ジンジャークッキー焼いたんだろ。じゃ そっちのグリーンのだ」そうして横から
 手を伸ばす貴方も好き。
 「・・・」片目だけ上げてるくせに、しらんぷりして本を読み続けてる。
 そんな貴方もきっと好き。

それから小さな花をそえる。

お湯を沸かす。
 白いホーローのやかんの蓋が カタカタカタカタ カタカタカタカタ ・・・・・・・・・・・・
 ポットに紅茶の葉をいれる。
 自分の名前で一杯。ポットにプレゼントの一杯。最後に貴方に一杯。
 お湯はやかんの口から ほとほとと音を立てて注ぐこと。
 ポットは揺すらないで、お茶の葉が開く様子を想像しながら、しばし見つめ合うこと
 じれてじれて じれて。
 香気がすっとひいた一瞬に、カップに注いであげる。

カップは暖めない。だって私 猫舌だもん。貴方は仕方無いなぁなんて言わずに、つきあってくれる。実は私は知っている。貴方も猫舌だって。

紅茶をついだ後のポットも、もちろん一緒に過ごしてもらう。
 ほら 紅茶とスプーンの愛について、あなたの見解はいかが? 話してごらん。
 クッキーをつまんだ指の横で、ポットはぶつぶつと独り言を語りだす。
 「どうせ カップに夢中で、話なんか聞かないくせに・・・」とかなんとか・・・。

カップを包むように 一口。まだ 口をつけるだけ。
 「はい 貴方疲れてるんだから、甘くしてあげる」
 自分には入れない砂糖を 貴方のカップに一個 ニ個。慌てて止める貴方にウインク
 「うそだよー」

最初のキスは 軽く やさしく。
 香りたつ香気をたのしみながら・・・。

セカンドキスは もう少し深く。
 あたたかい想いを確認しながら・・・。

それから ゆっくりと 愛を育むように。
 紅茶は飲み干さない。からだの中に落としてゆくのだ。
 ぬくもりで身体を 染めていくのだ。
 時間の中に過ごしていることに しあわせを感じるための魔法。
 時間が過ぎていくことが 素敵なことだと思い出すための呪文。

やがて 冷たくなってしまった カップの底の茶色い雫も落ちなくなったら、
 ポットにもう一度葉っぱを足す。
 お湯を注いだら 「はやくでろーーーーー」
 二杯目は賑やかにのむ。
 「あっつーい これ」
 「あたりまえだろ ほれ これでも 食え」
 「ふふふ、私はこれ食う」
 「お前 ふとるぞー」
 「太れって言ったの 貴方やない」
 小さな角砂糖を口に放り込み、おしゃべりしながら、貴方とキスしながら、
 カップを持って歩きながら、雑誌を肩越しにのぞきながら。

「花 ポットに入れないの?」
 「入れないの。これはね 食べるの」
 カップに花を入れ、紅茶で流し込む。花の精気 いただきます。
 「花食い」
 「っていう 妖精いたね」

 

一人で本のページを繰りながら、ポットと話しながらのむ時も、
 私はそうして 時間と遊んでのんでいる。

   

紅茶用のポット。いつ買おうか・・・。


950916

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 混沌の中 命を育むために、遥か昔、水はわが身を分離する。
 大地の温もりを離れて、遠い天を目指すために多くの記憶を脱ぎ捨て、純粋な分子に戻る。
 光を浴びて、再び地に抱かれるために集う分子の群れは、記憶の重さを微かに覚えている。
 天と地を結ぶ細い糸は、浄化しきれなかった思い出を空に放出しながら、落ちてくる。

 雨が重いのは、人の記憶が重いからだ。
 貴方の記憶は脱ぎさることができるのか?
 多くの想いが枷ならば、浄化の水に流せばいい。
 抱いて歩くきたければ、共に浴びよ。想いを分かち合う為に。

 水の記憶は天から落ちるその瞬間から始まる。
 空の記憶。
 葉擦れの記憶。
 そして、人の肌の記憶。

 土の記憶。
 地球の記憶。
 流れる大洋の記憶。

 花の記憶。
 魚の記憶。
 陽の言葉の記憶。

 分子に分解する瞬間、それらの記憶がこぼれおちる。
 受け止めてくれる人もなく、空を満たす。
 満たすほど多くの想いが人にはあるというのに、覚えているのは、浄化される水達だけ。

 そして、繰り返す。
 繰り返す。
 幾千年。幾万年。
 罪とは数えられない悲しみも。
 愛とは憶えられない喜びも。
 同じ重さで、人を、貴方を包みながら。

 降る。

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職人って?

私は お絵描き職人 と 自称してることがけっこうある。
 アーチストじゃないですよーって感じの意味でつかっているけど、今日、サイトを少し回っていて、こんな言葉を見つけた。(正確には覚えていないので意味合いのみ)
 「自分が納得出来ない製品を納品するのは、職人では無い」
 これは ある掲示板に投稿されていた文章にあったもので、投稿者の言葉ではなく、他の誰かにいわれた言葉である。
 私は 自分の自称と照らし合わせ、また、私自信が 昔に聞いた言葉と照らし合わせて、ふと 疑問に思った。

 自分の納得するものを突き詰めて行くのであれば、それは、芸術家を名乗るべきじゃないか?

 世の中には 職人さんと呼ばれる人がいっぱいいる。
 中には確かに「納得出来ないものは納品しない」人もいる。
 でも、納品するものが 人の使うものであるなら、私は
 「自分の納得より、使う人の満足」
 だと 思っている。
 そして、世の中には そうでなくてはならない職人の方が多いのではないか?

 もちろん、現段階で自分に可能な力を精一杯出すのは当然のことあって(手抜きとか、息抜も、しなければならないからするのである)、その「現段階」を高めるための努力は怠らないのは いうまでもないでしょう。

 使う人の満足を追うあまり、安かろう悪かろうが増えるという、情けない現実もあるにはある。
 そこに流されて、職人とは何かを見直さないと、たしかに、「職人」はいなくなってくる。
 でも、一時的な経済的満足しか見てないから起こるこれらの現象は、世紀単位でみれば、淘汰されていくと信じてる。
 だって、一時的な経済的満足は、あくまで一時的止まりだしね。
 信じてても、自分の一番精力的な時代には間に合わないじゃないか!と、悶々とされる方もいらっしゃろう。職人捨てるか、芸術に走るかしか、結局はないのか?と。

 残念ながら、それでも職人は職人でいるべきなんだと思う。
 今まで、職人さんはそうやって、引き継がれてきたという要素も強い気がするから。。

だから、「自分が納得出来ない製品を納品するのは、職人では無い」
 に対しては 私は
 「自分の納得より 相手の満足」
 というが、更に加えるなら、
 「自分が職人であると納得せずに仕事をする人は、職人ではない」


■追記

芸術家も好きですよー。
 でも、納品するお仕事は 職人仕事の需要の方がはるかに多いんですよねー。
 幸い、創造する余裕をもらえる分野なので、上手くつり合ってます♪


■さらに追記

プロって何?
 これもよく、命題として出されますよね。

私は 「責任」だと思ってます。
 責任も持つから見合った請求もできる。

 完全なものを仕上げる事とか、満足出来るものを、、なんて、、一生に何度だろう。
 いつも不満で、だからこそ 勉強しなきゃと思うばかり。
 まぁ 納得と満足は違うものですが、
 「どの段階で納得するか」も 落としどころとして問題になるとこで、
 その段階が、「顧客の満足」なんだと思う。
 そして、納めたものには常に責任をもつ。それがたとえ、
 「私は満足してないけど、客がこれがいいって言うからさ。しぶしぶ納得したんだよ」
 ってものでも、納めた限りは責任を持つ。。
 過去の仕事を振り返れば、赤面物もいっぱいです。
 でも、責任だけは放棄していない。なんで、プロと名乗っていいかなと思ってる。


もう一つ。
 陶芸家は 納得出来ない茶碗を割る、、という話がありますよね。
 私は京都育ちなので清水焼の人しか知らないのですが、清水焼の窯元では 年一回陶器市の時に、商品に出来なかったものとか、はぐれものを 安くで放出します。
 多分、焼き物の盛んな土地ならどこでもあるんじゃないでしょうか?
 ある窯元の方とお話した時に、この「出来の悪い茶碗は割る」という話を聞いたところ、こう言われました。
 「そんなんは 職人やのうて芸術家です。職人はちゃんと焼き上がってきたもんはみんな可愛い子供やし、いいひとに使うてもらえるように思うてます。第一、割ったりしたら、山から掘られ てきてここで熱い思いした、土に申し訳ないやないですか?焼くために使われた炭にも申し訳ないやないですか?」

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「どうしてはりますか?」

人にあった時、話し掛ける時、、電話の最初などにも使う。
 これに対しての返事は 自分の関心ごとを言えばいい。

健康なら 「おかげさんで、ぼちぼちあんじょう暮らさせてもらってます」
 商売してたら、有名な「ぼちぼちですなぁ」
 可もなく不可もなくなら「まぁなんとかやってます」
 天気がよければ「ええお天気でよろしおしたな」
 悪ければ「いやーさっぱりですわぁ、、おたくさんのほうは、どうですか」
 などなど。

大変都合のいい挨拶で、本題にはいる前のワンクッションにもなるし、特に話題がない時でも 話を始められるし、相手の都合もそれとなく聞きだせる。

「いや、貧乏閑無しで、今からまた呼びだされましてん」
 と言われれば、
 「お忙しい事で、よろしおす、気ぃつけてお帰りやす」と送り出せる。
 要は、あなたの都合は?という話し掛けでもあるので、
 話し掛けられる方から言えば、話したくない相手に声かけられれば、逃げる事もできる。つまりそういう隙を残した言葉でもある。

ということは、だ。
 この話し掛けに一番してはいけない答えは
 「何が?」
 である。

どうしてはりますか?
 関東の言葉に直したら、
 「最近どうしてますか?」「どうですか?」「ごきげんいかが?」

電話での話。
 実は 「ごきげん」がすぐ悪くなる人には、気分的に
 「ごきげんいかが?」とは 言いにくい。(意味は違ってもねぇ、なんとなく。)
 1週間以内に会った人に
 「最近どうしてますか?」「お元気ですか?」
 というのも 変でしょう?
 で、「どうですか?」という抽象的な言葉になったりするのだが、、、

用事がある時はいいよ。「今、お時間大丈夫ですか?」で始めて用件を言えばいい。
 でも、用件がない時は?
(用件がなければ、かけるなって? いや 用件がなくても かけないと、最近連絡一つよこさないと 言われるんだもん。毎週会ってるのに)

用件がない電話は
 「いいお天気ですねぇ、、どうしてらっしゃいますか、、、」
 って なっちゃうのよ、、私は。
 でも、言われるのよ。
 「なにが?」って、、。

今日は用件のある電話でよかった。。。
 にしても、用件に入る前のワンクッションで 「どうしてらっしゃいますか?」
 と付けたら、
 「何が?」と言われました。
 「いえ、実はですね、、、」と、続ける話題があっても、やっぱりこの「なにが?」は嫌です。

そして、続ける話題のない時にかけなきゃいけない電話はもっといやです。
 いや、電話だけじゃないな。よく解らんうわさ話に頷いてるのもイヤだ。

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